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長篠城(愛知県)

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長篠城(ながしのじょう)は、三河設楽郡長篠(愛知県新城市長篠)にあった城(平城)。現在は国の史跡に指定され、城跡として整備されている。天正3年(1575年)の長篠の戦いに先立つ長篠城をめぐる激しい攻防戦で知られる。 wikipediaより



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長篠城に関する質問と回答

相談戦国時代クイズの問題ですが、誰か一部でも教えてください!!>_<1 「長篠・設楽ヶ原の戦い」の発端となった長篠城当時長篠...

2012/04/21 00:00閉じる

戦国時代クイズの問題ですが、誰か一部でも教えてください
!!>_<1 「長篠・設楽ヶ原の戦い」の発端となった長篠城
当時長篠城を守っていたのは?A 小笠原氏B 内藤氏C 奥平氏 2 家康が入る前の江戸城は誰の居城だったか?A 風魔氏B 遠山氏C 笠原氏 3 江戸幕府成立直後、伊達藩と南部藩との間でしばしば係争がおきたのは次のうちどこか
A 水沢地方B 気仙地方C 和賀地方 4 南部家臣・北 信愛が開いた都市は?A 三戸B 盛岡C 花巻 5 島津義弘と最も関係の無いのは?A 琉球守 영주)B 惟新C 釣り野伏せ 6 武田信虎は追放後死因はなんだったのかA 老衰B 病死C 戦死 7 北条家第三代当主氏康が大将として戦った合戦はどれ?A 第二次国府台合戦B 第一次国府台合戦C 三増峠の戦い 8 秀吉の調停に反して名胡桃城を奪取し、小田原征伐のきっかけを作った猪俣邦憲の主君は誰?A 北条氏邦B 北条氏照C 北条氏規 9 信長による稲葉山城陥落の時、仙石秀久は何歳?A 18歳B 15歳C 10歳 10 安芸武田氏の末裔であり、関が原の首謀者として処刑されたのは誰?A 小西行長B 吉川広家C 安国寺恵瓊 11 羽柴秀吉はどうやって小田原城を落とした?A 大砲を使い、城壁を崩し、氏政を切腹させたB "木々を一気に切り落とし、一夜にして城を築いたかに見せ、兵士の士気を下げた"C 流言を流し、氏政から人心を遠ざけ、一揆を起こさせた 12 一五九八年、豊臣秀吉は全国から金を収めさせた
その時上杉景勝が越後の金山から収めた金の枚数は何枚だったか?A 1124枚B 1063枚C 1245枚 13 姉川の戦い」で八千の兵を率いて浅井長政の援軍に駆け付けた武将は?A 浅井久政B 朝倉景健C 朝倉義景 14 姉川の戦いで徳川軍に属し、朝倉軍の側面を攻撃して勝利の、原動力となった武将は誰か?A 井伊 直政B 本多 忠勝C 榊原 康政 15 長篠の戦の戦死者は次のうち誰?A 高坂昌信B 山県昌景C 山本勘助 16 朝廷から叙任されたもののすぐ返上してしまった織田信長の最高官位は?A 右大臣B 左大臣C 内大臣 17 足利義輝暗殺後、三好三人衆が擁立し、唯一入京しないまま室町幕府の将軍となった人物は?A 足利義澄B 足利義栄C 足利義維 18 足利義輝が殺されると弟の足利義昭を迎え元服させた大名は誰?A 三好長慶B 朝倉義景C 織田信長 19 足利義輝を殺害したのは三好三人衆と誰?A 三好長慶B 足利義昭C 松永久秀 20 織田方に攻められて、城兵の命と引き換えに切腹していない武将は誰?A 穂井田元清B 清水宗治C 吉川経家
確実といえない回答もありますが。 1 C 奥平氏 2 B 遠山氏 3 C 和賀 4 C 花巻 5 A 琉球守 6 A 老衰(多分) 7 A 第二次国府台合戦 8 A 氏邦 (北条当主直臣説もあるけど) 9 稲葉山落城を永禄十年(1567年)とすれば、B 15歳 10 C 安国寺 11 B 一夜城 12 A (多分)1124 13 B 景健 14 C 榊原 15 B 山県 16 A 右大臣 17 B 義栄 18 B 朝倉義景 19 C 松永 20 A 穂井田元清 6 の信虎の死因はBの病死っぽい(どっちにしても当時としては長生きですが)

相談長篠設楽が原の戦いと言うのは、かなり山奥で行われたのでしょうか?電車で通っただけですが、長篠城と言うのは川が合流するとこ...

2012/04/06 22:36閉じる

長篠設楽が原の戦いと言うのは、かなり山奥で行われたのでしょうか?電車で通っただけですが、長篠城と言うのは川が合流するところにあったようですね
この城をめぐって、近くの原っぱのような場所で喧嘩が行われたのでしょうか?三河の中でも、かなり山奥になるのでしょうか?武田の勢力は、三河の平野部には達してなかったということですか?
長篠は山あいではありますが、ご存じの通りJR飯田線の線路が城跡を横切り駅もあります車でも行けて、山奥とまでは言えないのではないでしょうか?城があるということは、支配すべき土地(農地)があるということです設楽ヶ原は南北で三キロ位の幅がありますが、両軍合わせて「五万」の軍勢が戦うには確かに狭いようです武田は平野部の吉田城も攻撃したことがあると言われるますが、東三河支配の拠点だけあって守りもかたく、落とすことはできませんでした長篠も三方が原の戦いの前に城主の菅沼氏が降伏して、武田方になって しまった城ですが、信玄の死後家康が奪回して、武田の侵出を食い止める重要な城だったのです三河では、武田は平野部には侵出できませんでしたが、遠江方面では東部に侵出を許していました

相談武田勝頼についての皆さんの評価は?個人的な意見としては、勝頼は過小評価されすぎだと思いますただ勝頼擁護派は擁護派で勝頼を...

2012/02/23 23:01閉じる

武田勝頼についての皆さんの評価は?個人的な意見としては、勝頼は過小評価されすぎだと思います
ただ勝頼擁護派は擁護派で勝頼を過大評価しているようにも見えます
「勝頼は信玄よりすごい」という人がいますが、勝頼は信玄と比べれば劣っていたのは否めないでしょう
勝頼は高天神城を攻め落とすなど、輝かしい経歴もあります
ただ、長篠の戦いと御館は大失策でしょう
長篠の戦いですが、戦うしかなかったという意見もあります
でも戦うとしてももう少し別のやり方でできなかったのか?川を利用した防御戦とか
あとは長篠城を強引に攻め落として撤退するとか
いずれにせよあの場所まで軍を進めて突撃することになったのは失敗だと思います
御館は大失策以外の何物でもない
確かに景虎に味方したら北条と武田の関係は織田・徳川の関係に近くなるかもしれない
だがそれでも史実よりはましである
高天神が落城したのも北条と敵対してから
また御館以後の勝頼はかなり北条に振り回されている

戦術面では信玄をはるかにしのぐでしょう。ただし戦略面や外交・内政では信玄にはるかに及ばないと思います。信玄は以下の一武将でしかなければ、あるいは幸せだったかもしれません。御館の場合はどちらにせよ景虎を見殺しにせねば成らなかったのでやむを得ないでしょう。当時家康が攻め入ってきたので景勝・景虎の和睦の仲介をしていましたが、兵力を防衛のために引き上げています。それと織徳を敵に回さざるを得なかったのは、信玄の負の遺産でした。そもそも武田織田徳川の同盟を裏切ったのは信玄で、織田信長は一度受けた恨みは何時までも忘れないという執念深さがあります。長篠の戦ですが、鳥居強右衛門が決死の報告をした時点で陥落は無理でした。援軍が来るという知らせと強右衛門の忠義に報いるために防衛側は意地でも陥落しないというのが分かっていたはずです。この場合は「鳥居強右衛門の武士道あっぱれである。彼に免じて引き上げる」ということにしておけば、敵城を後背に抱えての決戦は避けられたはず。しかも理由が理由だけに勝頼の面目も潰れなかったはずですし、ひょっとしたら逆に評価が上がったかもしれません。その決断ができていれば少なくともあのような脆い滅び方はなかったかも知れません。

相談長篠の戦いでは武田側は誰が決戦を支持したんでしょうか?通説では長坂・跡部が決戦を主張ししそれを勝頼が支持し、そのほかの武...

2012/02/08 22:53閉じる

長篠の戦いでは武田側は誰が決戦を支持したんでしょうか?通説では長坂・跡部が決戦を主張ししそれを勝頼が支持し、そのほかの武将は反対したとなっています
僕はこれは違うと思います
「武田勝頼のすべて」という本には、長坂は長篠の戦いには参加していないので、長坂が決戦を主張したというのは誤りである、と書いてあります
個人的な意見ですが、跡部と信豊あたりが賛成したのでは、と思います
信豊は勝頼と仲良しだったと言われてますし
それと勝頼は若い家臣の意見はよく聞くと言われてますし
さらに信豊は勝頼のいとこ
山県馬場らはやはり反対していたと思います
皆さんは誰が賛成し、誰が反対していたと思いますか?酒井の別働隊が動き出す前に撤退できていれば少なくとも史実よりはよかったと思います
もっとも、それでも武田が滅亡する可能性はありますが
個人的な意見としてはやはりあの決戦は失策であったと思います
即時撤退かそうでなくても長篠城を強引に攻め落として撤退するか
あるいは織田徳川軍が来た段階で間髪入れずすぐ攻撃して怯ませるか

「甲陽軍鑑」では馬場信春・山県昌景ら信玄以来の宿老の戦争回避論を、跡部勝資や長坂光堅(彼は長篠の戦いには参加していない)が一蹴して主戦論を主張したと描かれていますが、実際は勝頼本人が積極的な主戦論者だったと思います。その理由は、合戦前日(5月20日)に家臣に宛てた書状には「士気が低くい織田・徳川勢を打ち破り、仇敵を一挙に葬り去るべし」とあります。織田・徳川連合軍は3日がかりで陣城を築いた後、自らは戦いを仕掛けず、武田軍が攻めてきるのを待っていたことから、勝頼は信長は臆病風に吹かれていると判断したのかもしれません。5月19日に決戦か撤退かを巡って武田軍は軍議を開催しますが、そこで信玄以来の宿老たちは圧倒的兵力差を見て、勝頼に撤退を進言するものの、勝頼はそれを聞き入れなかったといわれます。跡部勝資が主戦論を主張し、勝頼も織田・徳川軍の士気の低さを感じていたことから、信玄以来の宿老の撤退論を一蹴し、決戦を決断したのでしょう。19日の軍議で内藤、馬場、山県ら宿老たちは、即時撤退等を進言、陣馬奉行の原昌胤も撤退論を説いたといいます。武田信豊、穴山信君ら御親類衆の態度は不明ですが、勝頼の主戦論に同調したのかもしれません。 また信濃先方衆の真田兄弟(信綱、昌輝)、土屋昌次は原昌胤と同様だったと思います。仮に勝頼が即時撤退案を受け入れたなら、本来の目的である長篠城奪還は失敗したことになりますが、来るべき次の戦いに備えて現有戦力は温存できることとなり、武田家滅亡は避けられたかもしれません。もし勝頼が戦術に長けた人物なら「隠れ遊び」(味方が勝ち目がないときは攻撃を仕掛けると見せかけ、敵に待ち惚けをくわせ迅速に撤退する方法)しながら堂々と撤退したかもしれません。

相談織田信長・徳川家康連合軍が、大量の鉄砲と大兵力をもって、甲斐の武田勝頼軍を長篠城近くで完膚なきまで大敗させた1575年(...

2011/12/18 23:12閉じる

織田信長・徳川家康連合軍が、大量の鉄砲と大兵力をもって、甲斐の武田勝頼軍を長篠城近くで完膚なきまで大敗させた1575年(天正3年)勃発の長篠の戦いについてです
近年、この戦いにおいて、信長が発明したと云う「鉄砲三段撃ち」なるものは完全な虚構だと云う説がほぼ有力で、織田・徳川連合軍の勝因は、寧ろ強固な陣地と武田軍1万5000人の兵力に対して、織田・徳川連合軍3万8000人という2倍以上の大兵力と、それに伴う鉄砲の大量導入が大きな理由だと云うのが主な説だそうですが、若しも、織田・徳川連合軍が武田軍と同じ位の兵力で干戈を交えていたら、勝頼は勝利を掴めたと思いますか?武田勝頼は父信玄でも出来なかった高天神城を陥落させる等、軍事的には信玄をも上回る様な意見もあるそうですが、如何でしょうか?いまひとつ無知の様な質問の仕方をして申し訳御座いませんが、何卒、皆様の御意見を御願いします

まず、なぜ長篠の合戦が実現したかと言う話から入ります。武田信玄、勝頼を含めて、織田信長が直接戦ったのは、長篠の合戦が始めてです。つまりは、信長が確実に勝てると判断した戦であると考えられます。それまでの信長の戦略は、武田家が国力・兵站上の理由で大兵力を前線に張りつけ続ける事が出来ない事を利用し、武田軍が進出してきている間は直接戦闘を避け、武田軍が本国に帰還後前線を挽回すると言う物です。正確には、反撃は徳川家が行い、織田家は侵略されてボロボロの徳川家を経済的に支援すると言った感じですが。普通であれば、領地の半分を侵食され、徳川家はとっくに崩壊している状況です。長篠城が武田を離反して徳川に付いたのもこういった状況による物です。この状況からの、信長直率の軍団による反撃は、武田家が徳川家との連戦で疲弊しきっていると見て、確実に勝てると判断しての出撃と考えられます。実際、武田家は最大兵力を連れてくる事が出来ていません。勝頼が、なぜ不利な兵力で決戦を挑んだかsと言うと、織田家と武田家の国力差が乖離し続けている状況で、武田家が劣勢を挽回するには信長の首を取るしか方法が無かったからです。長篠合戦時を逃せば、次に信長が出てくるときには、10万の軍勢で武田討伐戦になるかもしれず、勝頼としては逆転の可能性は突撃して信長の首を取る、ただこれ1点のみだったと言う事です。武田が勝つには、これしか方法が残されていなかったという状況です。なので、戦は織田家の戦略レベルで始まっているので、対等の兵力で織田・武田決戦が行われる可能性自体がありません。よくいわれる、信玄が病気で無かったら、織田家は負けたと言うのも、全くあり得ません。信長は、当時岐阜から動かなかったでしょう。信玄がこれを破るには、後方に徳川残党を残したまま、補給線を無視して織田領内を100km前進し岐阜城で数万で籠る織田信長を討ちとらねばなりません。補給線を無視すれば、周辺からの略奪を考慮に入れても2週間程度の力攻めで岐阜城を落とさねばならず、それには10倍近い兵力が必要でしょう。徳川を攻めていれば、力攻めをした場合は、織田との決戦前に貴重な兵力を消耗し、兵糧攻めをしつつ徳川領を切り取る作戦では、兵站上の理由で継戦能力が尽き、兵力の大部分を本国に返すことになります。武田軍が、たった500の兵しかいない野田城をちまちま攻めていた理由は、徳川家康に織田家に援軍を要請させ、信長を引きずり出したいがために行っていた物と思われます。つまり、信玄が健在でも、いずれ遠くない時期に本国に軍団を一旦返すことになり、次の全力出撃を行う前に、反織田勢力は史実通り、摂津石山本願寺を残して全滅します。信玄が健在でも、勝頼が行った史実と大差ない経緯をたどることになります。高天神城攻略に付いては・・・、多大な犠牲を出してまで取るべき必要があるかと言う問題も有ります。確かに要衝ですが、二俣城を橋頭保に南に侵食して浜松と高天神城を分断してしまえば高天神城は孤立します。簡単に取れる城なら取っておいた方が良いですが、国力・兵力の消耗に対して、どの程度の効果があるかが問題です。信玄が意地で攻めて落ち無かったた城を勝頼がたいした損害も無く落としたと言うのなら評価に値しますが。ちなみに、織田軍の装備、丸太と縄を持たせてのゆっくりした進軍は、包囲攻城戦装備です。おそらく援軍を要請された時点で、信長は救援が間に合わないと読み、包囲攻城戦を想定して出撃した物と思われます。おそらく、信長の腹積もりは、落城直後に織田軍が戦場に到着すれば、勝頼は長篠城に入って様子を見るはず。長篠城は、3方を崖と急流で囲まれており、1方向を重点的に包囲すれば武田軍を袋のねずみにできる。長篠城は落城直後で、篭城に耐えうる蓄えが無い。との計算の上での装備と出撃だったと思われます。実現していれば、武田家はこの時点で滅びていたでしょう。もし、本気で長篠城救援を考えていたのなら、長篠籠城兵に一刻も早く織田の援軍の存在を知らせるべきで、それにはすぐに出せるだけの兵を先行して送り本隊が到着するまで武田家を牽制させるべきです。にもかかわらず、ゆっくり進軍している・・・。おそらく、信長は同盟国徳川家の城兵を見殺しにする作戦なので、側近にも真意を漏らさなかった事でしょう。例え、歴史的勝利を収めたとしても、救援が辛くも間に合わず、弔い合戦をして大勝利を収めたと記録された事でしょう。

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