| 京都| 横浜| 箱根| 花見| 初詣| パワースポット| 世界遺産| 鎌倉 MM21 嵐山 大阪 奈良 浅草 下関 仙台 富士山 景色 夜景 坂本龍馬 旅のアルバム
TOP >  神奈川県 > 小田原市 > 小田原城

スポット詳細 地図・アクセス・最寄駅 最寄スポット 調べる 宿泊 写真

小田原城


Check
Yahoo!に Googleに はてなに ライブドア

歴史・文化北条氏日本100名城日本さくら名所100選 ホームページ
場所日本 神奈川県小田原市城内

小田原城周辺をストリートビューで散策!


小田原城の写真1
小田原城の写真2
小田原城の写真3
小田原城の写真4
小田原城の写真5
小田原城の写真6
小田原城の写真7



概要

・戦国時代、北条早雲、以後、氏綱、氏康、氏政の5代にわたる北条氏の本拠となったお城です。

・永禄四年(1561)には上杉謙信、永禄十一年(1569)には武田信玄の攻撃に耐え、天正十八年(1590)秀吉の21万の軍勢に包囲され、約4ヶ月の籠城虚しく小田原攻めで落城したことで知られています。

小田原城の感想・つぶやき


Twitter・Facebookアカウントでログインして 「レビュー・つぶやき・写真」を投稿しよう!

sign in with twitter sign in with facebook

akie.tsujinaka
Akie Tsujinaka のつぶやき 
色々中に鎧とか展示してました(・∀・)♪+.゚ 写真撮れないのが残念・・・ 小田原の駅降りたらお土産やさんがいっぱいで、かまぼこ屋さんが 多かったです!試食がいっぱいできますヽ(゚∀゚)/ Facebookでコメントする  

enopapa
えのぱぱ  
箱根にいく前に寄る! Facebookでコメントする  

FBにコメントを投稿

営業時間

開館時間
・9:00~17:00(入館は16:30まで)
 ※6~8月の土日・祝日は18:00まで(入館は17:30まで)
休館日
・12月第2水曜日、年末年始(12/31~1/1)

料金

入館料
(個人)
・一般    400円
・小中学生 150円
(団体)<30人以上>
・一般    320円
・小中学生 120円

他サイトからの情報

小田原城(おだわらじょう)は、神奈川県小田原市にあった、戦国時代 (日本) 戦国時代から江戸時代にかけての平山城で、江戸時代には小田原藩の藩庁があった。城跡は国の史跡に指定されている。
後北条氏 北条氏は、居館を現在の天守の周辺に置き、後背にあたる八幡山を詰の城としていた。大森氏も、そうであったと推測されている。3代当主北条氏康の時代には、上杉謙信や武田信玄の攻撃に耐えた。
wikipediaより


小田原城の最寄りスポット


 


language : 日本語  English


 

大きい地図を見る







小田原城に関する質問と回答

相談後北条氏の小田原城は、秀吉の20万の軍勢にも頑張ったのですね?秀吉が、力攻めをしなかったこともありますが、小田原城も、城...

2012/02/13 20:18 知恵袋   閉じる

後北条氏の小田原城は、秀吉の20万の軍勢にも頑張ったのですね?秀吉が、力攻めをしなかったこともありますが、小田原城も、城内に攻め込ませていませんね
後北条氏は、強かったわけですか?武田氏などよりも、実力は数段上ですか?武田勝頼は、最期は逃亡を図って、家臣の裏切りにあって、挙句に滝川一益軍の追っ手にかかってしまうようです
それに比べると、北条氏政は切腹ですが、子供は高野山への流罪です
一応形を保った負けになると思うのですが・・・
小田原城は開城したのであって、落城したわけではありません。城内には数年間の籠城が可能な兵糧が蓄えられていましたし、小田原の領民を丸ごと城中に抱え込み、豊臣軍から守るための設備もありました。秀吉が力攻めしなかったのも、自軍にも相当な被害が出るであろうことと、一夜城による自分の才覚のとっぴさと豊かさを全軍に示すためであったのでしょう。西の守りである山中城が豊臣軍主力の大軍と激戦の末、たった一日で落城し、北条氏政の弟・氏邦の鉢形城も氏照の八王子城も北方軍によって陥落し、関東の諸城が次々と開城していくなか、始祖・北条早雲の政治理念である『禄壽應穏』(領民たちの命と財産を北条家が守っていく、の意味)を守り抜くために北条氏政らは秀吉に降伏、開城することを決意しました。実質上の当主である北条氏政、弟で主戦派の氏照と重臣二人が切腹、領土は全て没収、一族の男子は高野山謹慎という過酷な処分が下されましたが、籠城していた家臣・領民たちには一切お咎め無し、他家への仕官も自由でした。織田信長によって領地を荒らされ、降伏や恭順を申し出た家臣たちも片っ端から殺され、それ以前に親族から見捨てられ、裏切られ、ついにはわずかな手勢で戦い、自害するしかなかった武田勝頼とはまさに雲泥の差といえましょう。小田原評定、という言葉にみられるように、とかく時代遅れ、世を見る目が無かったと批判されがちな北条家ではありますが、既に天下を統べるべき関白になっていながら同じ日本国のうちなる関東奥州において、過酷な仕置きをした豊臣秀吉、あるいは農民や山伏、女子供や老人たちが立て籠もっていた八王子城を殲滅させた北方軍(前田家と上杉家)の行いのほうがよほど批判されてしかるべきかと思います。

相談新府城が完成していても、織田信長軍の攻撃には抵抗できませんでしたか?まったく意味なしですか武田勝頼の失政のひとつに、新府...

2012/02/13 19:55 知恵袋   閉じる

新府城が完成していても、織田信長軍の攻撃には抵抗できませんでしたか?まったく意味なしですか
武田勝頼の失政のひとつに、新府城を築城しようとしたことがあるようです
この築城のために、木曽氏などは離反したそうです
(築城費用の負担を嫌ったためとされています
)仮にこの新府城が出来ても、織田信長軍に滅ぼされていたのでしょうか?後北条氏の小田原城の場合は、篭城して敵が疲れるのを待つ作戦ですが、この時の織田信長軍は、兵站などにも困っていなかったのでしょうか?
滅亡は必至の状況です各経路から60000をこえる大軍勢が一斉になだれ込んでくるわけで…60000という数は尋常じゃないです。都市が移動してくるようものです。しかも地勢的に親密でなければならない関東北条方も織田方についてます上杉方が救援しようにも信州の山を越えるしか道がありません。元来地勢的に道が限られた越後と甲州は相容れることができないのです。北条と組み終始越後と対立した武田信玄はさすがでした。四面楚歌孤立無援で完全に詰んだ状態信長の人生でもっとも感無量の得意の瞬間だったでしょう。壮年期をもっとも苦しんだ強敵を余裕の足取りで位攻めですからね討滅後に三河経由で遊覧しながら安土に引き上げてます北条方は秀吉の小田原攻めで関東の経済力の底力を示しました。富強な織田方は兵站に困ってないでしょう困っていたのは貧弱な国力の武田方です。黄金のために上杉の内乱に手をいれたくらいです。美濃や尾張の生産力だけで武田方の支配地域を余裕で超えます。武田方は華々しい決戦を挑もうにも誰も集まらない状況でした。信玄が築いた武田王国の末路は実に悲惨極まりないものでした余談ですが武田家は親子の相克がむごいです。そういったものが暗い影を落としていたのかもしれません

相談「今川義元」と「豊臣秀吉」はどちらが上?「今川義元」は「公家風」の武将のイメージがあります「豊臣秀吉」も織田信長の時代に...

2012/02/12 01:54 知恵袋   閉じる

「今川義元」と「豊臣秀吉」はどちらが上?「今川義元」は「公家風」の武将のイメージがあります「豊臣秀吉」も織田信長の時代に京都奉行を務めたり摂家の養子になろうとしたり、「関白」になってますので「公家的」な側面はあったようです「今川義元」は「海道一の弓取り」と言われ、当時は全国最強クラスの勢力を持っていたそうです「豊臣秀吉」も戦国大名としては最大の勢力になって天下統一を果たしました違うタイプの武将ですが、「公家文化を取り入れた」「最大最強」という点では共通性があるのでは


?さて


もしも豊臣秀吉が後北条氏を降伏させた小田原城攻め直後の辺りで、今川義元が駿河など桶狭間の戦い前の領地・官位を維持したまま存命だったとしたら(或いは氏真がそのままその地位を継承したとしたら)



?Q1:どちらも「公家文化」を重視したのでそれなりの「官位」や「朝廷の役職」を持っていたと思われますが1590年(小田原城攻め)の頃の豊臣秀吉と1560年(桶狭間の戦い)の頃の今川義元では官位・官職ではどちらが地位が上でしょうか?Q2:どちらも強大な勢力を誇っていたようですが領土・石高・経済力・軍事力・動員兵力


豊臣秀吉(1590年当時)と今川義元(1560年当時)ではどちらが上でしょうか?
1 その時点で秀吉は関白になってるので話になりません。2 石高、経済力、動員力も圧倒的に秀吉が上です。関東制圧後に義元がいたとしても、駿河、遠江、三河程度しかないので相手にもなりませんよ。確かに義元は有能ではありますが、所詮一地方の覇者です。全国統一した秀吉とは器量に差がありすぎて比較できません。

相談(後)北条巡りを計画しています3~5日の休みを利用して、(後)北条巡りの一人旅に出たいと思っていますプランの相談に乗って...

2012/02/07 15:33 知恵袋   閉じる

(後)北条巡りを計画しています
3~5日の休みを利用して、(後)北条巡りの一人旅に出たいと思っています
プランの相談に乗ってください
現段階で行く場所として、小田原城・早雲寺・興国寺城跡・韮山城跡・山中城跡を予定しています
足が伸ばせれば河越城や岡崎城も行きたいです
観光も兼ねて行きたいので、温泉や名物も楽しみつつゆっくりと、と考えております
そこで、上記以外の場所で(後)北条に関する場所・お勧めスポットを教えていただきたいです
もちろん上記の良い情報などでも大変嬉しいです
興味惹かれるのは、北条早雲が修善寺で湯冶と称して情報を集めた・・・という話で、実際に立ち寄った温泉が判れば寄ってみたいと思います
よろしくお願いします

小田原駅から徒歩3分のところに、北条氏政・氏照兄弟の墓があります。向の商店街で鈴をもらい、願いがかなったらお墓の柵に結わい来るそうです。願いがかなう『幸せの鈴』だそうです。やったことはありませんが、いっぱい鈴が付いています。地図のホテルとざんの南(下)側です。それと現在の観光用の小田原城は、江戸時代の再現です。後北条氏時代の本丸は、現在の小田原高校付近です。今の天守閣から見て、北西方向に当時の遺構(堀跡)などが残っています。

相談長尾影虎の小田原城攻め長尾影虎の春日山城から北条市の小田原城って、めっちゃ遠いですよねそんなところに影虎自らが出向いて大...

2012/02/05 14:20 知恵袋   閉じる

長尾影虎の小田原城攻め長尾影虎の春日山城から北条市の小田原城って、めっちゃ遠いですよね
そんなところに影虎自らが出向いて大丈夫だったのでしょうか?越後から相模まで、影虎の領土となっていたのでしょうか?影虎のいない越後は大丈夫だったのでしょうか?地理的に無理があるように感じるのですが、そのへんの謎について教えていただきたいです

>>尾影虎の春日山城から北条市の小田原城って、めっちゃ遠いですよね。>>そんなところに影虎自らが出向いて大丈夫だったのでしょうか?戦国時代でも有数の「長期遠征」で多くの障害はありましたが「長尾影虎」はそれらを乗り越え「関東遠征」を行なっています。>>越後から相模まで、影虎の領土となっていたのでしょうか?「越後」以外は、なってはいませんでした。しかし「越後」→「上野、武蔵」→「相模」といった国々で元々「長尾氏」は「上杉氏」の被官であり「上野、武蔵」が「関東管領上杉家」の領地でしたのでその「上杉氏」を保護した「影虎」は「関東静謐」という「大義」を得て「関東」の「関東諸将」に「北条討伐」の号令を出し戦となっています。この途上で「上杉氏」を引き継いだため「関東管領上杉謙信」となり更に「関東遠征」の大義を得ています。>>影虎のいない越後は大丈夫だったのでしょうか?「関東遠征」前に後顧の憂いをなくすべく自身の領内でも世情の不安定であった「越中」で謀反した「神保長職」を討ち心配をなくし関東遠征をしています。>>地理的に無理があるように感じるのですが、>>そのへんの謎について教えていただきたいです。元々「足利尊氏」の妻の家であった「上杉氏」は「越後」~「上野」~「武蔵」と広大な領土を有しましたが「長尾」「北条」「武田」などの台頭で領土を削られるといった時代に成っていました。その時代にあって「影虎」は「上杉氏」を保護することで「反武田、北条の諸将」「国人領主」への大義を得て「上野、武蔵」へ進軍が可能となっています。また「関東遠征」では「上杉謙信」後に「寺社領」「豪商」などへの様々な「政令」が出されており戦中に「僧侶、商人」も介在したことから国家機関を兼ね備えた「軍勢」となっています。

相談する検索ワード

猫カフェBLOG
名言サプリ